今年は例年より遅くなるかもしれないという桜の開花予想は、まるでそんな噂に対抗するかのような勢いで固かった蕾が開き始め、気がついてみればテレビが出していた予報より1週間近くも早い見頃を迎えていた。 少し風が冷たいけれど清々しい青空の下をひとり、満開の桜を見上げながら黙々と走る。 耳に突っ込んだイヤホンからはお気に入りの曲。 激しいリズム、アップテンポの音楽は春色の穏やかな景色には似合わないと思ったけれど、ジョギングのペースを保つにはこれが一番ぴったりだから仕方がない。 早朝の公園で他には誰もいないのをいいことに、覚えた歌をときおり口ずさみながら勝呂は腕時計に目を落とした。 時刻は、am6:00 今朝はいつもより早起きしたから、すこしだけ時間に余裕がある。 空が高く澄んでいて、桜がとても綺麗で、何だかすごく気分が良いからもうすこしだけ 「…‥遠回りするか」 春はお花見スポットとしても人気があるらしい公園をぐるりと走り、通り抜けて。たくさんの桜が集まる華やかな中心部から、少し外れの公園出入口の方へと向かう。 学園とは反対方向にあたるこちらは、ひっそりと静かであまり人通りもないが、ここには1本だけ見事な枝振りの大きな桜が立っていた。 かなり老齢であるらしいのだが、他の木に負けないほどの満開の花をつけ、春の風に揺れている桜を並んで見上げて自然と顔がほころぶ。 生まれ育った京都の桜もそれはそれは綺麗で、シーズンになると毎年たくさんの観光客が訪れて、春めいた街は賑やかに活気づいたものだけれど、この静かに咲く老木の桜の方が楚々としていて好ましい。 この桜がいつから、どういう経緯でここに植えられたのか勝呂には知る由もないけれど、まるで最初からお花見目的に寄せ集められた他の桜よりはずっと綺麗だと思った。 小枝の先が頭を垂れてしまうほど満開に花を付けた桜をもっと間近で見上げたくて、散策用に踏み固められた小道を外れ、木に近付く。 重ねた年月のぶんだけ太く育った幹に手の平を押し当てたら、ひんやりと瑞々しい樹皮の感触が心地良かった。 そういえば子供のころはしょっちゅう、大人たちの目を盗んでは境内の隅にあった桜で木登りをしたなぁなんて。懐かしい気分に浸っていたら、上から落ちてきた小枝がこつんと額に当たって、勝呂は空を仰ぎ見る。 と、同時に 「ぉわ―――ッ!!!!!」 ベキベキ、と何かがへし折れる鈍い音と叫び声がヘッドホンの向こう側で響いた。 訳が分からないまま勝呂は、咄嗟に持っていたペットボトルを放り出し、両腕を前へと突き出す。「落ちてくる!」と行動に思考が追いついたのは、一呼吸後のことだ。 まるで目くらましのようにいっぺんに降る薄紅色の花弁の中で、ほんの一瞬。見上げる勝呂と、落ちてくる彼の視線が絡み合った。 必死の形相から、驚愕にまあるく見開かれた青の瞳。 「っ、奥村ァ!!?」 きっとむこうの目に映る自分も、似たような顔をしているんだろう。 ほとんど反射で受け止める姿勢を取ってしまったものの、けっこうな高さから転落してきた同い年の男子を軽くキャッチできるほど、勝呂が力持ちなわけもなく。 抱き止めるというよりは半ば下敷きにされながら、勝呂は燐ともども桜の根元に転がった。 広げた腕の中、ちょうど胸に飛び込んでくる格好で燐が落ちてきたせいで、肺の中の空気がいっぺんに押し出されて一瞬呼吸が詰まる。 幸い地面が柔らかな土と芝だったおかげで、お互いに骨を折るという最悪の事態は免れたものの、それでもしばらくはウンウン唸るしかできないほどの激痛で、痛さのあまり不覚にも目尻に涙が滲んだ。 勝呂がクッションになったせいか、比較的ダメージの軽かったらしい燐は、乗っかっていた胸の上からパッと飛び起きて焦った声を上げる。 「悪りい!大丈夫か!?」 「何やってるんや、お前は!」 思わずいつもの調子で怒鳴って、思い切りむせ返った勝呂の背中を慌てて燐がさすった。 まさか頭上から落っこちてくるなんて―――否、高校生にもなってこんなところで木登りしているなんて。 祓魔塾で最初に顔を合わせた時から常識知らずな奴だとは思っていたけれど、まさかここまでとは思わなかった。 さっきまでの穏やかな気持ちはすっかり吹き飛んで、イライラしながら勝呂はさっき放りなげたペットボトルを指差して「取ってこい」と無言のまま催促する。 いつもなら絶対に喧嘩に発展しそうな横柄な態度だったが、燐も今回ばかりはさすがに反省しているらしい。文句も言わずにヨロヨロと立ち上がり、覚束ない足取りでボトルを拾って戻って来た。 投げ出して座った足の間、近い距離に座り込んだ燐の手からミネラルウォーターをもぎ取り、ゆっくり一口飲んだ勝呂はようやく深い呼吸を取り戻して溜息を吐く。 「ほんと悪りぃ、…‥怪我ねーか?」 「あれくらいでどうこうなるほど、軟弱やないわ」 「つうか、こんな時間にこんなトコで何してんの?お前」 「それはこっちの台詞や!高一にもなって普通登るか、あない高いとこまで!?」 一息ついて見上げてみれば、さっき燐が落ちてきたのは随分と高い枝の上だ。 ちょっと童心に帰って登ってみましたというには、いささか危なすぎるというか、はっきり言って普通ならば絶対にあんな枝の細った先までは行こうと思わない。 今だって、たまたま自分が下で半分受け止めたから(不本意ながら)打撲と擦り傷程度で済んでいるが、もし運が悪かったら盛り上がった太い木の根で頭を打っていたかもしれないのだ。 心配なんかしてやる義理もなければ、そこまで仲が良いわけでもなかったが、責める言葉がお小言めいてしまうのは性分だから仕方がない。 訓練でも何でもないところで怪我でもして、ますます授業に遅れるつもりかと。せいぜい嫌味っぽく詰ってやったら、燐はむっとした顔になって「だって」と、小さな子供みたいな声を出した。 「だって、すげえ綺麗に咲いてっからさ。この上から景色眺めたら、めちゃめちゃ気分良いだろうなって思ったんだ」 「…‥お前、そこらへんに木登り禁止って看板あるの、ひとっつも見てへんな?」 「あー…‥桜に夢中になってた。でもさ、これ、見てくれよ!」 ずっと右手に握りしめていた携帯を、燐がぐいっと突き出してくる。 そのちっとも悪びれない態度に、差し出された手を振り払ってやりたい衝動に駆られたが、あんまりにも燐が嬉しそうに笑うから、 ついつい勢いに負けて勝呂は目の前に突き出された携帯のちいさなディスプレイに目を向けた。 そこに写されていたのは、高い木の上から望む早朝の街。 淡くけぶる桜色が額のように景色を切り取り、その向こうに春らしい水色の空と朝焼けに映える正十字町が映っている。 こまごまと入り組んだ街は、携帯のカメラ越しに見ると生活感が感じられなくてオモチャみたいだ。 なんだか妙に可愛らしい写真に、思いもかけず目を奪われる。不機嫌にぎゅっと寄せていた眉間の皺が解けた。 「なんか、ミニチュアみたいやなぁ」 「だろ?なんか面白くてさ、みんなにも見せてやりたくなって、写メろーかと思ったんだけど」 「ああ、それで落ちたんか」 きっとベストポジションを探すうちに注意が疎かになって、うっかり細い枝に足を乗せてしまったんだろう。 燐は奇跡的にピントがぼけなかった写真を満足そうに眺めて、すこし汚れてしまったディスプレイを袖口で拭う。 そんな彼の顔を、勝呂は斜め上の角度からしばらく眺めていたが、ふと思いついて「おい」と燐の腕を小突いた。 「それ、他のヤツ―――特に、奥村センセには見せん方がええで」 「なんで?」 「叱られるやろ、普通に」 「あー、そっか木登り禁止かぁ」 せっかく無茶をして高いところまで登ったのに、誰にも見せられないなんて。 仕方がないとはいえ、あんまりにもがっかりだ。 さっきまでのはしゃぎっぷりが嘘みたいに項垂れた燐のつむじを見下ろして、勝呂ははぁっと溜息を吐く。 (なんで俺が、フォローしてやらなイカンのや…‥) 別に放っておいたって構わない。 放っておいても、どうせ三歩も歩けば凹んでいたことなんて忘れて、次の面白いものに興味を持っていかれるに決まってる。 そんなふうに思っているのに。いつもなら絶対に無視してしまうはずなのに―――何故か今朝は、しょげる燐を放っておけなかった。 渋々というには、そこまで気が乗らない訳でもない。何だかとても中途半端な気分で、勝呂は自分の携帯を取り出して、真向かいにしゃがむ燐を見る。 「…‥その写真、俺がもらうわ」 「へ?」 「お前にしちゃ良い写真やったからな、貰っといたるわ」 勝呂的にはフォローのつもりだけど、言われた燐にしてみればつまりは「写真ちょうだい」とお願いされている格好だ。 写真が欲しいというわりにはかなり上からな物言いだったが、まさか勝呂からそんな言葉を掛けられるとは思っていなかったのだろう。 燐は木から落ちてきた時よりもビックリした顔をして、それから満面の笑顔になる。 「へへっ…‥さんきゅー」 塾で顔を合わせているときは、不真面目で腹の立つヤツだとばっかり思っていたけど、目の前で屈託なく笑う顔は不思議と嫌いじゃなかった。 桜の木の下でメールアドレスを交換して、公園の前で燐と別れる。 ほんの少し遠回りするつもりが思った以上に時間をかけてしまっていたようで、寮を出たときには肌寒いくらいだった空気も、すっかりお日様に暖められて少し汗ばむくらいだった。 行き道よりは早いペースで走りながら、勝呂はさっきもらった燐からのメールを思い出して、妙なこそばゆさに唇をへの字にひん曲げる。 燐から送られてきた初めてのメールには、きれいな桜の写真と「俺たちだけの秘密な!」と、子供の約束みたいな一言が添えられていた。 |