授業のない日曜日の午後、一週間分の食材を買いだしに出た燐はあまりの日差しの眩しさに、時間帯も選ばずに出掛けてきたことを後悔しながら自転車のペダルを踏み込んだ。 なんせまだ十五歳。 バイクも車の免許も取得できる年ではなく、しかも例え免許を持っていたとしても肝心のバイクそのものがない身の燐が、唯一徒歩以外に与えられたのは利便性は完璧に無視したこの昔ながらのママチャリだった。 食事は黙っていても毎朝晩用意され、生活に必要なこまごました雑貨を買い揃えることのできる購買に近い新館の男子寮ならば、まず生活の不便を感じることはないのだろうけれど。 燐と雪男が寝起きしている旧館は生憎と購買には遠く、おまけに食事も自炊が基本の状態だから日々の買い出しは重要なライフワークだ。 入学したての最初の頃はよく雪男と二人で日曜日に連れ立って、二人がかりで一週間ぶんの食材を買い込んでいたのだけれど、祓魔師としての仕事も忙しくなってしまった雪男が買いもの班から外れることが増えるようになり、しばらくした頃。 ひょっこり旧館へ顔を出したメフィストが何の気紛れかプレゼントしてくれたのが、この変速すらついていないレトロな自転車だった。 二千円札で支給される一カ月の生活費といい、どうせ真っ当なものを寄越すはずがないと思っていたから、この自転車を見たときも特に驚きもガッカリもしなかったけれど、どうせくれるならばせめてもう少し男子高校生が乗っても恥ずかしく ないようなスマートなデザインの自転車にしてほしいよなと思う。 それでも久々に乗る自転車はなかなかに楽しくて、週に一度の買い出しは燐のちょっとした楽しみになっていた。 いつも通りの道、商店街へと続くなだらかな坂道を下る。 見上げる空はうすい水色。 たかくたかく背を伸ばした入道雲と降りしきる蝉しぐれに、いつの間にか季節はすっかり夏へと移ろっていたんだと今更ながらに気が付いて、わけもなくそわそわと浮足立つような嬉しい気分になった。 去年までは夏がきたと言ったって暑いだけで、日々の暮らしが特に何か変わり映えがする訳でなく。ただ山のように出される夏休みの宿題と、いつもより割増される修道院の掃除の手伝いに辟易するばかりだったけれど、今年はきっと――――― (なんか、楽しいことあるんじゃねーかな) 学校の宿題も、祓魔塾での勉強も。きっとこれまでの勉強量とか比べ物にならないくらい、たくさんあるとは思うのだけれど。 それでも今年が決定的に違うのは、もう自分一人っきりじゃないということ。 雪男はもちろんこれまで通り側にいるし、それに加えて志摩やしえみたち。この学校に通うようになって一気に増えた友達がたくさんいる。 真面目一辺倒な弟から言わせれば「遊んでいる時間なんてないんだよ」といったところだろうけれど、夏休みの全部が任務や塾で埋まってしまう訳はないだろう。 近場のプールでもいいし、燐たちが住む旧男子寮は他には誰も居ないから、あの庭先で花火をするのも悪くない。 まだ誰にも持ちかけていない、ひとりであれこれ空想して膨らませる楽しい夏の計画に、自然と唇の両端が笑みの形に吊り上る。 と、空から前方に戻した視線の先。 長い坂道の途中に、見慣れた後ろ姿を見つけて燐は思わず「あ」と声を出した。 ベルを鳴らすより、声を掛けるよりも先に、ぎゅっと握ったブレーキの鈍く高い音に気が付いた彼がこっちを振り向いて、すこし驚いたような顔をする。 「なんや、奥村やないか」 軽く見開いた目が燐を見て、すこしだけ細められた。 目付きが悪いせいで分かり難いけれど、ちょっと笑ったらしい(たぶん)。 たったそれだけのことがなんだか妙に嬉しくて、燐は勝呂の横で完全に自転車をストップさせるとサドルから下りて彼の隣に並んだ。 「よお、どっか行くのか?」 「あぁ、商店街のとこの薬局にな」 「薬局?‥‥どっか具合悪いのか?」 「いや、薬やのうてカラー買いに行くんや。髪染めるヤツ」 ごつい指輪で飾られた人差し指がちょいちょいと色の違う髪を指すので、すこし伸び上がって見てみるとなるほど。彼のトレードマーク、気合いの表れであるらしい金色に染めた髪の根元二センチほどが、元の黒髪になっている。 今はまだ言われて意識しないと気にならないけれど、確かにこのまま黒が進出してきたら格好悪いかもしれない。 染めるのって憧れるけど、結構面倒臭いものかもしれないなと、のんびりそんなことを考えながら視線を勝呂の髪から顔へと戻した燐は、ふと思いついて自転車の荷台をポンと叩いた。 「そーだ。勝呂、後ろ乗ってけよ」 「ぁあ?」 「俺も食料買い出しに商店街行くとこだからさ、一緒に行こうぜ。チャリなら早いし」 歩いて行ってもそう遠い距離じゃないけれど、初夏の午後二時。 お日様もほとんど空の真ん中に昇りきり、日陰も満足に見当たらないこの時間にてくてく歩き続けるのは勝呂だってしんどいはずだ。 案の定、この日差しの強さには彼も辟易していたようで、ママチャリと燐を見比べて一瞬微妙な表情を見せたものの、すぐにこっくりと頷いた。 勝呂の返事を見届けて、さっそくサドルに跨ろうとした燐を遮るように、燐が掴んでいる反対側のハンドルに大きな手が乗せられる。 「俺が漕ぐから、お前が後ろ乗れや」 もう一方の手は、たったいま燐がしたのと同じように、自転車の荷台をとんとんと軽く叩いた。 すっかり自分が漕ぐ役のつもりでいたから、あっけにとられて固まる燐を横目に、勝呂は我が物顔で燐のママチャリに跨ってしまっている。 誘ったのは自分のはずなのに、何故かすっかり勝呂のペースで仕切られている現状に首を捻りつつも、急かされるまま荷台に座った燐は少し迷った末に両手で勝呂の肩をつかまえた。 シャツ越しに伝わってくる体温は、温かいはずの自分の手のひらよりもずっと熱くて、すこしびっくりする。 サドルと荷台の高さぶん、いつもより大きく見える勝呂の背中越しに伸び上がって、前方の景色を見ようとしたら「危ないから、じっとせえ」と窘められた。 助走もいらない、なだらかな長い下り坂の途中。 ブレーキを放して軽くペダルを踏み込むだけで勢いよく進み出す二人乗り自転車は、最初の数メートルこそ不安定に右へ左へと蛇行したものの、すぐにバランス感覚を取り戻した勝呂のおかげですいすいとスピードに乗り、 まるで風のように快調に商店街へ向けて走り出した。 好き好んで出歩く人も少ないこの時間、自分たち以外にこの坂道を行く車も歩行者も無いのを良いことに、ブレーキから指を放してぐいぐいペダルを踏む。 お日様の熱とアスファルトの照り返しで暖まった空気の塊が、どんどんぶつかってきて息苦しいけど気持ちが良い。 普段真面目な勝呂がこういう無茶をするのが意外で、だけどそれが楽しくて声を立てて笑ったら、視線は前へ向けたまま。だけど笑いを孕んだ声で、勝呂が燐を呼んだ。 「奥村!」 「なに!?」 「たまにはチャリも悪ないなぁ」 「だろー?」 びゅうびゅうと耳元で唸る風に攫われてしまわないように、燐も声を張り上げる。 「チャリなら、結構遠くまで行けるんだぜ!商店街のもっと向こうのプールとか、映画館とかさ!」 「へえ、交通費ゼロはおいしいな――――ほな、今度はそっちまで行ってみるか?」 たとえば、夏休みのどこか。 塾も任務もない、暇な日にでも。 賑やかに騒ぐ蝉の声、唸る風の音。 熱気と一緒に燐をとりまく、どの夏の音よりも強く勝呂の声が耳に届いて。 どきりと心臓の鼓動がひとつ、大袈裟なほど強く跳ね上がる。 思わず勝呂の顔を反射的に仰いだけれど、ハンドルを握る彼は前を向いたままで、どんな顔で誘ってくれたのか確かめることはできなかった。 友達と過ごす夏休みを思い描いて、みんなに声をかけてみようなんて。 たぶん普通の子供なら当たり前にしていること―――だけど燐には初めての事で、どんな言葉でどのタイミングで言い出そうかと思案していた矢先だけに、先回りで勝呂から誘ってもらえたことが嬉しくて仕方がない。 「ああ!」 ほんとうは嬉しい気持ち、上がりきったテンションそのままに、目の前の広い背中に飛びつきたいところだけれど、それはあまりに危なそうだから止めておいた。 かわりに勝呂の背中におでこをくっつけて、ぐりぐりと押し付けて。叫び出したい衝動をやり過ごす。 「勝呂、夏休み、一緒に遊ぼうな!」 「ああ。それもやけど、勉強もな」 「えーっ、じゃあそれも一緒に‥‥」 「おう分かった。しっかり面倒見たるさかい、覚悟しとけや」 応える勝呂の声が、少しだけ意地悪そうな笑いを含んで燐に届く。 燐に届いて、今度はふたりぶんの笑い声になって、後ろへと流れていく景色の中へ風に攫われて飛んで行く。 こんなに楽しいのも、夏が楽しみなのも、これが初めてだ。 (―――――夏休み、はやく来い!) こっそりと、心の中で強く念じてみる。 痛いほど肌を焼く夏の陽と空の青さ、手のひらに伝わる体温に胸が騒ぐ。 声を立てて笑いながら勝呂の肩越しに空を仰いで、燐は眩しさに目を閉じた。 楽しい予感だけ書き込んで |