はらり、と。前髪が目元に落ちて、そのたびに鬱陶しそうに燐が目を擦って頭を振る。
最初のうちこそ気にも留めなかったけれど、机を挟んで向かいあった真正面で五分と経たずに同じことを繰り返されれば、嫌でも意識せざるを得ないというか黙って居られなくなるのは、普通の感覚なのかそれとも勝呂の性分か。
とにかくもう燐の手が前髪を撫でつけたり目元に伸びるたびにだんだんとイライラが募り、燐を気にし出してから数えること十回目―――――ついに我慢できなくなった勝呂はバシンと乱暴な音を立てて、読んでいた雑誌を机に叩きつけた。
まだ塾の授業が始まるにはすこし早い時間なせいで、珍しく一番乗りしていた燐と勝呂以外には誰も居ない教室にその音は大きく響いて、同じく情報誌に夢中になっていた燐はビックリして椅子から文字通り飛び上がる。

「なっ、なんだよ急に!」
「お前、ピンどおしたんや?」
「はっ!?」
「俺がやったピンは、どぉしたんやて聞いてるんや。さっきから前髪ちょいちょいちょいちょい鬱陶しい」

たったいま燐がやっていた手付きを真似て前髪を撫でつけ、目を擦ってみせる勝呂の若干悪意のこもったモノマネに、燐はむっとして眉を吊り上げたものの。文句を言い返すよりも先にまた、根性無しの前髪が視界を邪魔するみたいに落ちてきて、 むず痒く肌と睫毛の先をくすぐる。
俺はそんな女子みたいな手付きで髪を弄ったりしていないと言い返そうとした矢先だから、もう絶対に髪を触りたくなくて意地になって痒いのを我慢していたら、これまた運の悪いことに頭を動かした拍子に毛先がモロに目に入ってしまって、 眼球をちくりと刺す地味な痛みに思わず燐は両手で目を覆って机へと突っ伏した。

「ぐぁああああ、目!目、超痛ぇ……!」

人間の体は大抵、鍛えればどこだってそれなりに頑丈になるのに、目だけは本当に駄目だ。
ほんとうはきっと、ちくっと触れた程度。
なのにもう勝手に涙が溢れてくるし、痛くて痛くて満足に目蓋も開けられない。
いくらデリケートな部分とはいえあまりにも打たれ弱過ぎやしないかと、悶絶する燐を眺めながらどうでもいいことを考えてみる。

「あー、もう。難儀な奴やなぁ!どれ、見せてみぃ」

最初は放っておくつもりだったのに、あんまりに燐が痛がるものだから、結局は面倒を見る羽目になるのだ。
しぶしぶと手を伸ばして彼の頭を両手で捕まえた勝呂は、ぐいっと燐の顔を自分の方へと引き寄せて、手のひらで長い前髪をすくい上げた。
もう何度か触れて知っている彼の、見た目よりも柔らかい髪を痛くない程度に引っ張って少し乱暴に仰向かせたら、制服の襟元から伸びた白い喉がかくんと反る。

「目ぇ、開けや」 「〜〜〜っ、お前、もうちょっと優しくできねぇの?」
「やかましいわ、傷付いてないか見たるで、早よ開けぇ」

視界を閉じたままの急なバランスの変化は、いくら身軽な燐でもさすがに怖かったのだろう。
仰向かされた瞬間、咄嗟に腕にすがってきた指の強さと不安そうに薄く開いた唇に、若干の罪悪感を覚えながらも今更優しくなんてできるはずもなくて、勝呂はわざとつっけんどんな声を出した。
これじゃ目より先に、首痛めるかハゲになっちまうとブツブツ文句を言いながら、それでもやはり冗談抜きに目は痛いらしい。眉間に皺をよせて、どうにか目蓋を開いた燐の瞳を勝呂は目を凝らして覗き込んだ。
祓魔塾の教室は高等部と比べると照明が弱くて、眩しくない代わりに細かい作業には向いているとは言い難い。
ともすれば自分の影が落ちて、ますます見辛くなる燐の目を右も左もつぶさに観察して、そこに一筋の傷も異物も入っていないことを丹念に確認した勝呂は「はぁ」と溜息を吐いた。
頭をしっかりと捕まえられたままの燐は半端な仰向きの体勢が心許ないのか、大人しく勝呂に身を任せたまま、息をひそめてじっとしている。

「なぁ、どうだった?」
「ぁあ?何ともあらへんわ、少し赤なっとるけどな、きれいなモンや」
「超痛かったんだけど?」
「そら痛いやろ、毛はいったら」

あんまりに当たり前のことを深刻そうに言うものだから思わず笑ってしまったら、明後日の方を向いていた燐の視線がこっちを向いて、至近距離で見つめ合う格好になった。
いつも見ているよりもずっと近く、深々と覗き込んだ青色はまだ涙で濡れていて、そこに仄明るい照明の橙と自分の落とした影がゆらゆらと映り込んで、不思議な色に揺れている。
海とも空の色とも違う、青。
あまり馴染みのないその色は、自分の記憶の中の何と一番似ているだろうかと考える。
陳腐な例えを引っ張り出すならば、宝石みたいだとでも言うのだろうけれど、くるくると表情を変える彼の青色はそんな鉱石に擬えられるほど無機質なものではなくて、もっと、こう―――――




「あ、のー‥えっと、勝呂?おーい、スグロクン?」

困ったような声で呼ばれて。
腕を掴んでいた指で、ちょんちょんと袖を引かれて。
すっかり物思いに沈みこんでいた勝呂は、はっと我に返って改めて燐の顔を見下ろした。
目を開けさせるために軽く目元に添えていた手のひらの下、触れたときはひやりとしていた燐の頬は血の色を昇らせて、すこしばかり体温が高い。
ただ目にゴミが入っていないかを確かめていただけなのに、どうしてそんな顔をしているんだと不審に思ったのは一瞬で。

「――――ぁあ、すまん」

彼の青に夢中になるあまり、最初よりもずいぶんと近付き過ぎていたことに気がついた勝呂は、慌てて燐の体を椅子の方へと押しやった。
手を離した拍子にまた目元へ落ちてきた前髪が入らないように、咄嗟にぎゅっと目を瞑った燐の顔を見下ろしながら、つい数秒前の自分と燐の距離を思い出して今更ながらに耳が熱くなる。
柔らかく髪を掴んで、逃げられないように頬を囲って。
いくら確かめる為とは言え、あまりにも近過ぎた距離。
燐の息遣いを感じなかったのは彼が息を止めていたからなのか、それともそれすら気付かないほどに自分が集中していたのか、今はもう分からないけれど

―――――もしもあれを誰かが見たら確実に、キスをしているようにしか映らないだろう。




いつ、誰が入ってきてもおかしくない教室だ。
誰に見られても寒々しい誤解を生むことにしかならないだろうけれど、とりあえず面白がって話を大袈裟にしそうな志摩に見られなくて良かったと、勝呂は内心ほっとしながら向かいに座る燐を見た。
まだすこし顔が赤いままの燐は言い訳がましく「今日はピンを忘れたんだよ」と言いながら、また邪魔そうに前髪を手で押さえつけている。
その、俯きがちの湿った睫毛を視線でなぞって。
気まずいのかこっちを見ようとしない燐の、あの青色が自分を映さないことに落胆と安堵の両方を胸に抱えて、一体自分はどうしてしまったのかと勝呂はぼんやりとした不安を覚えた。


どうしてあんなに、あの青に惹かれたのか。
どうしてこんなに、胸が騒ぐのか。
考えれば考えるほど空回って深みにはまっていく予感と、期待。


(―――――期待?何を?)



むっつりと黙り込んだまま、そこまでを一息に考えて勝呂は燐から目を逸らした。
さっきまで熱心に読んでいた雑誌の、夏休みのイベントやレジャー情報が並んだカラフルなページを見失わないように、右上の角を折り込んでカバンの中へと突っ込みながら、入れ替わりにヘアワックスやピアスの入ったポーチを引っ張り出す。
たしかここに、燐に貸してやったのと同じピンが入れっぱなしになっていたはずだ。
お目当てのピンを探り当てて、なるべくいつも通りの調子で燐を呼べば、向こうもようやっと普段のペースを取り戻したのだろう。「なんだ?」という表情で、相変わらず前髪を押さえたままの燐が勝呂の方を見る。

視線が絡んで
一瞬だけ躊躇って

「髪、邪魔やろ?」

勝呂は手にしたピンを、燐に向かって開いて見せた。
ピンを貸してやる、とも。髪を留めてやる、とも取れる微妙な言い回しに燐は軽く目を見張って、それから見たこともないような表情ではにかみ笑う。


「・・・おう、さんきゅー」


両手は膝の間に下ろしたまま。ん、と顔を寄せてきた燐が目を閉じるのを間近で見下ろして、また。目のやり場に困るような、ひどく落ち着かない気分になる。
目元にかかる前髪を指先ですくい上げてそっとピンを潜らせると、堂々巡りになりそうな妙な空気を追い払うように、勝呂は燐のおでこに手加減なしのデコピンをお見舞いしてやった。





サファイアシュガー

まだ、名付けないで。