いつもならば、そこにあるはずの背中が居ないというのは、何とも変な感じだ。
それが健康だけが取り柄、賑やかしくて存在感たっぷりという相手ならば、尚のこと。

祓魔塾、いつもの教室いつものメンバー・・・が一人欠けたせいで妙に黒板の見晴らしが良くなった自分の席で、普段の通りに背筋をぴしりと伸ばしたまま、勝呂は「はい」と手を上げた。
まだ一限目の授業が始まったばかりで、教壇に立つ先生ですら教科書を開いていないというタイミングでの挙手に、この時間の担当。悪魔薬学の講師を務める雪男は不思議そうに首を傾げ、 それでもすぐに笑顔になって「はい、勝呂くん」と応じてくれる。
一瞬、授業中の通りに起立するべきか迷って。
けれど授業とは全く関係のない質問だから、そこまでしなくても構わないだろうと肩の力を抜いて。勝呂は挙げた右手を下ろすと、クラスメートたちの注目の中「あのう・・・」と切り出した。

「先生、奥村は今日はどないしたんですか?」

聞かなければ、確実に燐については何も触れずに授業を進めるだろう、クールな双子の弟だ。
勝呂が質問すれば案の定、あまりその件については話したくないような雰囲気が、ほんの一瞬彼の口元に漂って。それでも雪男は持ち前の切り替えの早さで、いつも通りの笑顔を作る。
今日の授業で使用する薬草やら、何か分からない薬品の入った瓶をてきぱきと教壇に並べて授業の準備を整えながら、雪男は何でもないような口調で勝呂に答えた。

「奥村くんは風邪で、お休みです」
「風邪?あいつが?」
「ええ、ひどい風邪なんです」

馬鹿なのに風邪を引いたのか、という驚きか。
悪魔でも風邪を引くのか、という疑問か。
いったいどちらの理由でクラスメートたちがざわついたのかは、この際あえて触れないでおく。
兎にも角にも、家族であり。ひとつ屋根の下に暮らしている雪男が「風邪だ」というのだから、まぁ・・・そういうことなんだろう。
確かにここ数日、一気に気候は秋めいてきたせいで、高等部のほうでも体調を崩している生徒は多かった。
いくら悪魔として覚醒しているとはいえ、半分は人間の血を引いている燐だから、怪我の回復は早くても風邪は普通にひくのかもしれないな、と。
最初にわずかに感じた雪男への違和感を無理矢理に押し込めて、勝呂は頷く。
一応は納得した様子の勝呂に、雪男はにこりと微笑むと、指先で眼鏡を押し上げながらぐるりと教室を見回した。

「今は高等部でも風邪が流行っているようですね、皆さんも気を付けて。うつされたりしないよう、くれぐれもお見舞いなど無用な接触は避けて下さい―――――では、授業を始めます」







一応は、納得した。
とりあえず、あの場は納得したつもりでいたし、少なくともその後二日間は雪男の説明に疑いを持たずに過ごした。けれど・・・


「さすがに、何の連絡もなく三日欠席はおかしい思うやろ」
「奥村くん、ケータイも繋がらへんし。メールも返ってきいひんしなぁ」

いくらひどい風邪を引いているとは言っても、メールの返信くらいはできそうなものだし、逆にそれすらできないような重病ならば尚のこと、お見舞いも行かずに放っておくのは薄情すぎる気がしてしまう。
燐が祓魔塾に姿を見せなくなって、今日で四日目。
相変わらず雪男の説明は「質の悪い風邪」の一点張りで取り付く島もない上に、今日に至ってはその雪男までもが急な任務とやらで欠席で、さすがに放っておけなくなった勝呂たち三人は放課後。
ついに「お見舞いに来てはいけない」という、雪男の言葉を無視する格好で旧男子寮へと向かっていた。

祝日が連なり、連休になるような週末は任務に携わる講師も多い為、放課後の祓魔塾の授業は自習もしくは休講になる。
ずいぶん日が落ちるのが早くなった秋の午後でも、まだ十分に明るい時間。三人はそれぞれお小遣いを出し合って、コンビニで燐へのお見舞いにゼリーやジュースを買い込み、 オレンジの色味が強くなったお日様の光に背中を暖められながら歩く、旧男子寮への道。
何の連絡も無しにいきなり押しかけるのも悪いかと思い、コンビニに立ち寄る前にも一度、子猫丸が燐の携帯に電話をかけてみたのだけれど、相変わらず回線は呼び出し音のまま繋がることはなく、 薄ぼんやりとした不安が三人の歩調を早くした。

候補生試験に備えての合宿で、初めて訪れた時には不気味だと思った旧館も、何度も遊びに通って見慣れてしまえばレトロで味のある建物に見えるから不思議だ。
もうずいぶんと通い慣れた道。
古めかしい石造りの橋を渡って、門を通り過ぎる。
見上げれば、奥村兄弟の寝起きしている部屋の窓は開いていて、中途半端に引かれたカーテンが窓の隙間から風に踊っていた。

「奥村くん、本当に具合悪くて寝てはるんやろか?」
「さぁな。まぁ、窓が開いてるゆうことは、とりあえず留守ではないんやろ」
「まぁ、とにかく中入りましょか。突っ立っとると、ちょっと冷えるし」

三人して顔を見合わせて、頷き合う。

一応設置されている呼び鈴は押さずに、いつも通り両開きの扉を開いて玄関に一歩足を踏み入れた。
すると、思いもよらないほど近く。それも足元から「わっ!」と子供の声が響いて、一番先頭でドアを開けた勝呂は驚いて足を止める。
どんどん中へ進むものだと思っていたから、突然の急停止にすっかり油断しきっていた子猫丸と志摩が次々と背中にぶつかって、押される勢いに勝呂が前へとつんのめった。
二歩、三歩と前へよろけた拍子に爪先が、足元に転がっていたチョークを踏んで嫌な音を立て、その音を合図に勝呂の足元でしゃがみ込んでいた子供は、パッと立ち上がると勝呂たちが 呼び止める間もないまま、一目散に寮の奥へと駈け出して行く。

「ゆきおーーーー!」という、聞き慣れた名前を舌足らずに叫びながら。



予想外の出来事に、残された三人は誰からともなく顔を見合わせ、それからたった今まで子供がしゃがんでいた玄関の土間に視線を落とした。
いつもは奥村兄弟の靴が置いてあるだけの広々とした玄関が、今日は色とりどりのチョークで盛大にラクガキが描かれた巨大なキャンバスになっている。
鏡映しにひっくりかえった平仮名、解読不能な文字(らしきもの)、手足の数が多過ぎる猫の絵や、左右のレンズの大きさが違う眼鏡をかけた人の顔は、まさに幼稚園児のお絵描きといったところか。

色遣いも構図も奇抜すぎて、いっそ芸術的ですらあるラクガキを見下ろして。
廊下に転々と白く残る、小さな足跡を視線で辿って。
勝呂は困惑のためか、妙な半笑いで幼馴染たちを振り向いた。


「なぁ、なんや今のちっさいの―――――奥村に似てへんかったか?」



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